11.19
日本の美術史の構造
日本の美術史とか、芸術史を考える時に、日本人の感性だけに依拠していると、否応も無く、内向きになって、車座で、考える事になります。
この構造は、実は、日本の文化が、いつも海外の動向の影響を受けて動いている事の、裏返しなのです。
日本の文化の大半は、海外の《文明》の影響を受けて、模倣なのですが、その起源を隠そうとして、見ないようにします。あるいは、問わないようにしています。
そして美術史の展開も、自力で展開していると言うよりも、海外の文明が動くと、それを取り入れて、新しい傾向の模倣品をつくります。
江戸時代までは、《文明》の変化もゆっくりとしてたので、取り入れて、日本化して、咀嚼していく時間の余裕があったのですが、明治からは、海外の《文明》の動きが早過ぎて、間に合わなくなります。
日本の海外の《文明》の模倣は、表面だけの模倣なので、原理から模倣していません。ですから、海外の動きが速いと、間に合わなくなるのです。
まず、日本は、海外の《文明》を模倣しているので、《文明》にはなれずに、一つ退化した《準-文明》になっています。この退化した《準-文明》の悲しさというのが、日本美術の大半に、くっついています。
【註。用語を《準-文明》という新語をつくりました。《準》というのは、1 ある物事を類似のものと比較して、仮にそれとみなす。擬する。なずらえる。2 まねて作る。にせる。なぞらえる。】
しかしその中に、例外があって、《文明》になっているものがあります。一つは鎌倉時代の美術で、代表は運慶の彫刻です。これはもしかすると世界中で一番早くに、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界の芸術を造り出しています。
つまり運慶の彫刻は《文明》です。
狩野元信、狩野永徳の美術も、《文明》になっています。
俵屋宗達の美術も、《文明》になっています。
そして葛飾北斎の美術も、《文明》になっています。
つまり日本の中には、
革新性や卓越性があって、《準-文明》を乗り越える《文明》性もあるのです。