11.24
東山御物における唐物
東山御物(ひがしやまぎょぶつ)における唐物
室町時代の文化の中から華道や、能などの日本文化の代表が生まれました。
この室町時代は、平安時代を再評価した日本文化のルネッサンスであったのです。
しかし同時に、中国から輸入した中国美術=「唐物(からもの)」が崇拝された時代であもありました。
その唐物(からもの)の象徴が「東山御物」でありました。
「東山御物」というのは、室町幕府の頂点に君臨した足利義満以降の将軍たちによって収集されたコレクションでした。
それらは当時の中国的な感性を代表したものであると、日本人に誤解され、そして、その後の日本人にとっての美意識の規範となったものなのです。
その「東山御物」は、室町幕府の崩壊と共に散逸したのですが、それを再度集めた展覧会が、三井記念美術館で、「特別展 東山御物の美ーーー足利将軍家の至宝」という展覧会が開催されました。(2014年10月4日〜11月24日)
これを見てきたのですが、作品の9割以上は、私の鑑識眼では、芸術になっていませんでした。
東山御物は、《想像界》しかないもので、《固体》の《ソフトコア・アート》でありました。
つまりニセの芸術で、特に《美》の規準になるような至宝では有りませんでいた。
つまり当時の宋元の美術品を高く評価して輸入したのですが、その芸術の輸入は失敗していたと、私には思えたのです。
まず、問題なのは国宝指定のされている(伝)徽宗筆 南宋時代の国宝「秋景山水・冬景山水図」と言う絵画です。
これは彦坂尚嘉の言語判定法をつかった芸術分析では、《想像界》しかなくて、《第6次元 自然領域》、《固体》の《ソフトコア・アート》です。
つまり凡庸な作品であって、名作ではありません。
国宝ではありますが、(伝)となっているように、徽宗(きそう)の絵を手本にした模作の可能性もあります。
さて、問題なのは、徽宗(きそう)という画家ですが、これは北宋の第八代皇帝なのです。
そして芸術家として北宋の最高の一人であるとされているのです。
徽宗(きそう)は、北宋の画院において、院体画を完成しています。書家としても、痩金体(そうきんたい)という楷書の書体を開発して、当時に人気を博しています。
まず痩金体(そうきんたい)ですが、《想像界》だけの書であって、《第6次元 自然領域》です。芸術性はなくて、これはモダンデザインの先駆形態です。この書の様態は《固体》です。モダンデザインそのものの様態は液体ですから、ほんもののモダンデザインではなくて、あくまでも先駆的なモノです。
モダンデザインというのは、例外なくと言えるほどに、すべてが《想像界》だけの《第6次元》であったからです。
デザインというのは、すべての人が好み評価するモノです。
ですから、この時代に、徽宗の書に、人気があった理由は、デザインの書であったからです。
同様のことは、徽宗(きそう)の絵画にも言えるものであって、《想像界》で《第6次元》の絵画でしかなく、これはデザインであったのです。
足利幕府の将軍は、この北宋の皇帝のデザイン絵画を喜び、それを輸入して、芸術の規範にしたのです。「
東山御物」の9割以上は、《想像界》だけの《第6次元》のデザインでしかないものでありました。
中国からの、芸術の輸入は、失敗したと思います。
この時から、日本の《美》の規範は、デザインになったのかもしれません?