01.04
北野武監督作品『この男凶暴につき』
北野たけしについてFacebookで書きましたら、思ったよりも反応をいただいたので、続きを書きます。ブログでは、Facebookの記事は明日Upしますので、順序が逆になります。
『この男凶暴につき』は、私は封切りの初日に行っていて、そしてビデオ買っていて、何度も見ている好きな映画です。好きな映画ではありますが、しかし《野蛮》です。
《野蛮》ですが、ただ、良いのは、《映画》になっていることです。
《原-映画》《映画》《反-映画》《非-映画》《無-映画》という映画概念の梯子があります。
この《映画》になっているということは、高く評価できます。
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比較で言えば、ほぼ同じ時期の村上龍の映画は失敗するのですが、
それは《映画》にならなかったからです。
たとえば村上龍監督第4作「トパーズ」には、
《原-映画》《映画》という概念はありません。
有るのは《原-演劇》《演劇》《反-演劇》《非-演劇》《無-演劇》という演劇概念の梯子だったのです。
道具立ては華やかですが、「トパーズ」は《想像界》だけで、《第21次元 エロ領域》という低い映画です。
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『この男凶暴につき』が、《野蛮》だと言いましたが、
たとえば伊藤俊也監督の『女囚701号/さそり』は、彦坂尚嘉の芸術分析では《文明》になっているのです。
この差は、何なのか?
『この男凶暴につき』は、芸術分析的には、次のようになります。
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》までの4界の精神で作られた映画。
《格》ですが、思ったよりも低くて《第8次元 信仰領域》です。
芸術になっているかと言うと、《芸術》ではありません。
《原-デザイン》《デザイン》《反-デザイン》の映画です。
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この映画の企画は、『ダイ・ハード』を見て、作られたと当時の情報で読んだ記憶があります。
『ダイ・ハード』と比較すると、まず、《ディープミステリ》というリテラシーの有無の問題があります。
今日の芸術の多くは、映画も、音楽も、美術も、この《ディープミステリ》に依拠して作られているのですが、北野武の映画にはこれが無い。
第54回ヴェネツィア国際映画祭にて金獅子賞を受賞した『HANA-BI』もまた、
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》までの4界の精神で作られていて、
《ディープミステリ》が無い。
北野武の精神そのものが、古くて、国際的な現代性を欠いているのです。
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たとえば デヴィッド・フィンチャー監督の『ドラゴン・タトゥーの女』ですと、《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》の8界があります。
北野は4界、フィンチャーは8界、2倍違うのです。
そして伊藤俊也監督の『女囚701号/さそり』は、フィンチャーは8界を越えて、《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》までの9界があったのです。
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誰も信じないでしょうが、彦坂の言語判定法では、伊藤俊也監督の『女囚701号/さそり』は、《文明》なのです。
普通の常識では、この映画は下品な《野蛮》と思うのでしょうが、
そうではなくて内在的な原理で作られている《文明》の映画なのです。
《文明》には内在原理があります。
しかし《野蛮》には、無い。
言いたいことは、映画をつくる予算の規模の問題では無くて、北野武の映画監督としての精神そのものが《野蛮》で、優れた映画になる内在的な原理的深さを欠いていたのだと私は思います。
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精神の問題は、予算の規模からは、切り離せると私は考えます。
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まあ、古くさい精神主義と受け取られると思いますが、今日でも『老子』や、上座仏教の『スッタニパータ』を読むことに意味があると思っています。
そこには、《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》までも書いてあるのです。
北野武は、《文明》の古典的な教養がなかったのではないか?
だから《野蛮》に留まっている。
アーティストは、東洋の古典を読みましょう。
その教養が現在の新しさを把握するのです。