毎週木曜日に新宿三丁目の竹林閣で、塾と展覧会を開催しています。

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プロフィール

彦坂尚嘉

Author:彦坂尚嘉
彦坂尚嘉 美術家。アート・ネットショップ『きたいぶんしギャラリー3000』主催。ヴェニスビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、パリ青年ビエンナーレ出品。クイーンズミュージアム、テイトモダーン出品。芸術分析家、元立教大学大学院比較文明学特任教授。1946年東京生まれ。多摩美術大学油彩科中退。

糸崎公朗 フォトモ・アーティスト。『子供の科学』『デジカメwatch』連載。1965年長野生まれ。東京造形大学デザイン科出身

生須芳英 アーティスト。ノイズ音楽家。1991年生まれ。多摩美術大学夜間部中退。

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新・文盲の時代へ

【新・文盲の時代へ】


美術評論家の室井絵里さんが、次の様に書いておられた。

「私たちホモ・サピエンスが言葉による伝達。つまり、言葉によって未来を予測する能力をもったということらしい。言葉は第二の遺伝子であり、イメージの記録をして、芸術作品を生み出す。
昼間、旧知のアーティストと話していて、最近気になるのがこの言葉の読み取り能力の減退です。
私は、格別メディアを問題としていないので、言葉が紙媒体でも、石媒体でも、こうしてインターネットでもなんでも伝わればいいやと思うのですが。それと、自分が物書きのはしくれであるならば、少なくとも他者が発した言葉にはマジに接するべきだと思うのですが、必ずしもそれができていない人が多い。
ものすごく本読んでいても、インターネットの文章を読んでいても、読んでいるだけで、なんか閉ざしていて他者からの伝言をちゃんと受け取っていないというのが気になるってはなしをしていました。
そりゃ、美術作品見ている人にも多くて批評が成立せんのはそのせいかと。
自分のことしかなくて、閉じているのは基本言葉読めても読んでないのと同じ。」
(情報出典:https://www.facebook.com/profile.php?id=1551890391&fref=ts 室井絵里さんのfacebookの3月19日2:41)
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【以下は、彦坂尚嘉の文章です】


「文盲」というのは、文字の読めない人の事です。
高野雅夫という20歳くらいまで文盲であった方と、立教大学大学で、研究室を1年間ですがご一緒いたしました。
高野雅夫先生を通して、「文盲」ということを教えられ、考えるようになりました。
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読書能力は落ちていると言う話は、前から聞いていて、長い文章は読めない人が増えているようです。写真週刊誌に載っている見開きの記事のしたにあるキャプションくらいしか、読めなくなっているというのです。
室井絵里さんのご指摘のように「言葉の読み取り能力の減退」という事実を、最近は感じるようになっています。
文字の時代から、映像の時代に変わって、確かに読書力が落ちている。
哲学が読めない人は増えていて、ビートたけしも読めないというのですね。
つまり昔のような「文盲」ではなくて、一応の文字は読めるのだけれども、読解力が落ちて、表面的にしか読めない人が増えているのかもしれません。
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自動車が出現すると、足は弱ります。
昔は江戸から京都まで歩いて行っていたのに、そういうことが普通の人にはできなくなる。自動車の発明と普及で、多くの人の足が弱ったのです。
コンピュータが出現すると、コンピュータは「電脳」なので、人間の脳が弱ります。
昔は、哲学書の西田幾多郎の『善の研究』が戦中・戦後を通じてベストセラーとなったのですが、今日では大学生も読めなくなったのかもしれません。
つまり多くの人の脳は、コンピュータの出現で弱ったのではないでしょうか?
新・文盲の時代になっている様に見えます。
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室井さんは「読んでいるだけで、なんか閉ざしていて他者からの伝言をちゃんと受け取っていない。・・・自分のことしかなくて、閉じている」と指摘なさっています。
それは私の人格分析でも、ブーバー言うところの《われー汝》《われーそれ》という関係性を有する人格が壊れてきていて、関係性の無い人が増えている。
人格欠損者です。
《我無し》
《我だけ》
《それだけ》
という人が、現実に増えていることが、観察されます。
それが、読解能力の欠如、と結びついている。
分かりやすいのは《我だけ》ですが、自分しか無いので、情報をとって学ぶことができません。他人の言うことを聞いていません。自分は他人の言うことを聞いていなくても、そのこと自体も、自覚できません。
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その結果として、超訳の本や、解説書ばかりが売れるようになっています。
しかし、解説書は、偽物にすぎません。
思想や哲学の、偽物だらけになっている時代です。
100円ショップのような、代用品の偽物の本の時代です。
こういう《文明》の状態を、私は、《無-文明》と呼びます。
《無-文明》の時代に、文化は死滅するのです。
文化の死滅というのは、R.H.ロークマーカーという人が言っていました。
それが実現してきています。
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しかし、どうしようも無い事です。今更、コンピュータを壊す運動を始めても、すでに手遅れです。
ならば、文化は死滅させて、もはや文化無しで、ただ幸せに生きれば良い。昔は、大衆は文盲だったのだから、今は、少なくとも読めるのだから、大昔よりは良いのです。
私は、新しい中世の時代になっていくのではないかと思います。
新しい暗黒の時代=新中世の時代。
老子は、理想の社会として『小国寡民』を唱えています。
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老子 『小国寡民』
小さい国で、国民も少ないのが理想的である。
いろいろな器具があっても、使わせない。
国民たちに命の大切さを考えさせ、遠くへ移り住みたいと思わせないなら、車と小舟があっても、乗っていくことなく、鎧と武器があっても、並べて戦争することがない。
国民に、再び縄を結んで約束の印とするようにさせ、そのような古代の生活に立ち返らせ、食事をおいしく、服を美しいと思い、住まいに満足し、風俗を楽しませれば、隣国同士お互いに見渡せる近さで、鶏や犬の声がお互いに聞こえる近さでも、人々は年老いて死ぬまで、お互いに行き来しようとしない。

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