04.26
日本美術の人格構造の限界を超えられるのか?
岡崎とむかし、美術手帖で対談をしたときに、ロックバンドのニルバーナの名前を出したのだが、全く反応が無かった。
ロックの歴史を、1990年代で、画然と切ったのは、このニルバーナであった。
しかし、このニルバーナを聴けない人がいる。
ヒットとしては、全世界でのトータルセールスは、約7500万枚というすごいものです。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第30位というもので、
決してマイナーバンドではない。
マイナーバンドではないのに、聴けない岡崎のようなアーティストは、古いのだ。
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現実は多様なので、簡単に言えるものではない。
つまり現実の多様性と、理念的な把握は違う。
この現実と、理念の区別というか、差異も、分かってくれる人は非常に少ない。
だから誤解されるのだが、分かりやすい例で言えば、色彩論において、《白》と《黒》は、重要です。
オストワルトの色彩論は1920年代に登場しますが、ここでは「理想的な白(W)」「理想的な黒(B)」というものが
存在します。
しかし1916年に登場したマンセルの色表では、「理想的な白(W)」である明度1の白は存在しませんし、
「理想的な黒(B)」である明度10の黒は存在ません。
つまり理想的な「理想的な白(W)」「理想的な黒(B)」というのは、脳の中だけの理念であって、
現実を採取すると存在しないのです。
理念の存在と、現実の存在は違っていて、この2重性が世界を作っている。
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理念的な印象派という絵画運動は、モネによって始まり、モネに代表されるものです。
モネの人格は、肖像写真を言語判定法で分析すると《それだけ》です。
つまりモネの絵画の展開には即物主義性があるのです。
しかし現実社会の中で、印象派の画家ルノワールの人気は非常に大きい。
つまり現実としての印象派は、ルノワールを偉大な画家とするところにあるのです。
ルノワールの人格は《われー汝》があって、人格としては、ルノワールの方が上なのです。
モダンアートの美術史の上で、理念的に勝利を収める美術家の人格というのは、実は《それだけ》であるのです。
ざっとは確認しましたが、有名なアーティストの人格のほとんどが《それだけ》です。
フォービズム・マティス:《それだけ》
マティスの絵画を、即物主義の人格が描いていったとしてみると、多くの謎が解けます。
キュービズム・ピカソ:《それだけ》
ピカソの1945年以降のひどい《第8次元 信仰領域》の絵画が、しかしプラズマ化していくのですが、
これが何故に恥ずかしげも無く耐えられたのかというのも、即物主義の人格であったと言う視点で見ると理解できます。
同様の作業をしていって、ジェフ・クーズまでに至るまで、《それだけ》の人格者が主流を形成していきます。
ジェフ・クーズというアーティストは、あくまでもモダンアートの展開の中にしたのであって、その意味では古いアーティストでした。
こういうモダンアートの《それだけ》の人格の時代に、日本は、美術家の人格が《我だけ》であったのです。
黒田清輝:《我だけ》
岡本太郎:《我だけ》
森村泰昌:《我だけ》
村上 隆:《我だけ》
この欧米と、日本の主流アーティストの人格構造の差が、芸術の格差を作っているのです。
こういう人格差の問題は、サッカーで歴然としています。
ブラジル・サッカー選手と、日本のサッカー選手では、人格構造が違うのです。
サッカーで優勝したければ、日本選手の人格から選別し、さらには人格改造をしないと駄目です。
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さて、何故にニルバーナを出したかと言えば、あくまでも理念的にですが、
情報革命後のアートの主流を形成するはずの人格構造は、《汝だけ》であると思うからです。
この予想があたるか、当たらないかは、分からないのですが、
私の知力をかけて測定すると、私の我田引水的願望も含めてですが、《汝だけ》であると思います。
このニルバーナのカートコバーンの音楽は、《汝だけ》です。
私は、アーティストは、人格構造から、自分で設定して、人格を意図的に作っていかないと、駄目だと考えます。
私は、ずいぶんとそういう努力をしてきて、多くの人に嫌われてきています。
嫌われるのは、日本のアーティストの主流は、あくまでも自己愛性の世界で、《我だけ》と信じているからです。
私は、《我だけ》では、日本の美術は、いつまでも駄目なガラケー状態であると思います。