05.25
死の情報芸術化の拡散
【死の情報芸術化の拡散】
後藤健二さんの死の画像を見ました。深く哀悼の意を表します。
ただこの画像は虚偽であるという報道も、すでに知られているようにありますが、その説得力もあって、私も、ほぼ虚偽であるだろうと思っています。
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しかし私が驚いたのは、この画像が、芸術化していたことです。《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》という芸術の階梯がありました。
さらに《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》の9界があります。そしてさらにその先の《死》があって、10界がある画像だったのです。
様態は、《15・超高温プラズマ化》していたのです。
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つまり重要な事は、虚偽情報であったとしても、IS(「イスラム国」)は処刑の情報を流していて、それが《死の情報芸術》化を達成していて、インターネットで世界中に広がると言うことです。
その情報が、ニセのゴミであろうと、実際の処刑であろうと、実は同意であって、《死の情報芸術》は進んでいくのです。
1991年のインターネットの登場によって、死の情報化は広がりました。いわゆる死体写真がネットで公開され、そうしたサイトを見る人々が増えていったのです。
この《死の情報芸術》は、ポルノの解禁にともなう《性の情報化》とともに、情報化社会の大きな裏の推進力になりました。
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今日のIS(「イスラム国」)が、ネットを介して流す殺害の映像は、非常に重要な《文明》の転換を示しています。
死、あるいは殺害、処刑などが、デジタル情報になって、グローバルに発信されていることです。死が、デジタル情報へと還元されたのです。それは同時に、情報のゴミに還元されていると言うことでもあります。
情報化社会というものの本質は、情報のゴミの大量生産に過ぎないのですが、そのゴミの中に、死が還元されたのです。その意味でIS(「イスラム国」)は、非常に過激な《死の情報芸術》を成立させていると言えます。
この《死の情報芸術》の成立を前にして、思い出すのはアウシュビッツです。アウシュビッツは、殺人の工場化でありました。つまり死の大量生産体制の確立だったのです。それは極めて即物的でありました。これもまた芸術化であったことは、写真集『決して忘れはしない』が良く示していました。死体から取った髪の毛がうずたかく積まれ、入れ歯も積まれ、その光景は即物主義の芸術でありました。
《死の即物主義芸術》と、《死の情報芸術》の成立は、「ピラミッドのミイラ」や、「中国の秦の始皇帝陵の兵馬俑」、そして「日本の古墳における埴輪」とともに、《文明》の重要な心的深層を作っています。
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《文明》を形成した紀元前6000年以上前の人類の精神の成長過程で、非常に大きいのは《死》の問題でした。
《文明》の象徴と言える巨大墳墓の建設には、異常とも言える死への執着と、死後の世界への《想像界》的アプローチがあります。
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つまり「ピラミッドのミイラ」や、「古墳における埴輪」等々は、《死の古典芸術化》でありました。
●《死の古典芸術化》
●《死の即物主義芸術化》
●《死の情報芸術化》
この3つの展開が、人類史の展開になります。
先日の『大英博物館展』でも、エジプトの人体型の棺桶を見ましたが、彦坂尚嘉の言語判定法では、《汝だけ》という自我構造で、した。つまり死者が《汝だけ》になっているというのは、汎神論化していることなのです。
それに対して、アウシュヴィッツでは、工場化で大量生産される死者は、《それだけ》になってしまっていました。つまり死者が即物論化してしまっていたのです。
ではIS(「イスラム国」)の《死の情報芸術化》というのは、いかなる構造なのでしょうか?
その答えを、私は、今は書きたくありません。
IS(「イスラム国」)とは、何であるのか?
なぜ、被処刑者は、朱色の衣服をつけているのか?
何故に、銃殺では無くて、首を切断するのか?
IS(「イスラム国」)の意味を説くのは、難しい問いなのです。安易な回答は、まだ出せません。
IS(「イスラム国」)の旗は、彦坂の言語判定法では、少なくとも《野蛮》ではなくて、《文明》です。
サミュエル・ハンチントンが言う様に《文明の衝突》なのでしょうか?
その《文明の衝突》の意味は何なのでしょうか?